あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
昨夜(というか、ついさっきまで)、突貫工事で書き上げた年賀。
(クリックすると大きくなります。右から左に読んでネ。…さらに、タイプBも作成。)
結局、最後まであわただしかった昨年でした。
今年はグウタラに過ごしたいなあ。
教育テレビって、お正月からいきなりおじゃる丸スペシャルだなあ。年末の反戦特集はなんだったんだ。。
2006年 元旦
今年のエントリはこれでおしまい。
昨年に引き続き、今年もブログを通じて、いろんな方と出会い、遊んでいただいて、とても楽しかったです。ありがとうございました。
また、来年もよろしくお願いします☆
第2位 「姉歯探偵事務所−マイナス1級は殺しのライセンス」
私は姉歯氏。
マイナス1級ライセンスをもつ、偽造のエージェントだ。
私の偽造は、そうカンタンには見抜けない。マンション・ホテルの偽造など、まだまだ序の口。
私の手がけた偽造はいたるところに及ぶ。
姉歯氏はひとりの名前ではなく、エージェントに与えられたわざの総称であるからだ。
先週、君の奥歯の詰め物がはずれたのは、アマルガムの鉄筋量が減らされていたからだ。
蛍光灯が突然つかなくなって暗い夜を過ごした経験があるあなた。それは私、姉歯氏によって、構造計算書が書き換えられたため。
まだまだある。
脱線事故の原因とされる鉄道会社の「構造上の問題」。
与党大勝利を支える新人議員の「鉄筋(すじがね)」を抜いておいたのも、姉歯の仕業。
今年最も稼いだタレント、みのとHG。ともに腰の「鉄筋量」に問題がある。震度5以上の地震が来れば、腰砕けるだろう。
真央はなぜフィギュア代表になれない。
今頃になって発覚するアスベスト禍。今頃になって回収される大手電機メーカーのファンヒーター。事件になるまで「偽装」は見抜けまい。
中身は何も変わってないのに想定外の上昇を見せる株価。
中身は何も変わってないのにベストセラーになる本、売れる商品。
中身は何も変わってないのに憧れのセレブ生活。
安すぎるマンションと似てはいないか。
鉄筋はちゃんと入っているのか。価値の構造計算は偽装されてないか。
幼女殺人が連続して起こったとき、ふと不安になる日本の構造上の欠陥、鉄筋量の不足…。
マイナス1級ライセンスを取得する日本人はいたるところで増えている。モラルハザード。売れればよし。
いや、売らなければ、何もどうしようもないではないか。生きることは売ることだ。
キミも知らないうちに、姉歯氏となっているかもしれない。
空を悟ると書いて、悟空。
孫悟空は、経典の人・玄奘三蔵の弟子。三蔵法師は釈迦の弟子であって、悟空は謂わば、釈迦の孫弟子。
三蔵法師は、経典おたく。本の中に真実が書かれていると信じるあまり、世界も現実も本の解釈でしか理解しない。
世界とは、アーラヤ識という巨大な書物の上についた染みを、まちがって読解した結果、生じる、とのたまう。
目の前に苦しむ人がいても、経典の中の何がしの出来事にパラフレーズすることが出来なければ、まるで目に入らなかったかのように無視する。
そんな時、活躍するのが、ゴクウら、御供のものたち。
そのひとりは、ハッカイ。白い怪物。
彼もまた、世界の存在を認めない。ハッカイ式の問題解決法は、いたって単純。問題を、喰ってしまう。解決するのではなく、消滅させる。
「お助けください!」「ようし、喰ってやろう」
問題が存在しなくなれば、答える必要もないわけだ。
ゴジョー。
ゴジョーは、待つ。ひたすら待つ。待って待って待ち続ける。ゴジョー待ち。他愛のない雑談の名手でもある。
「お助け下さいませ!」「よろしい。待つがよい。答えはそののち、さずかるだろう。ところで、キミ、もやい結びの仕方について、知っているかね、もやいというのは…」
こうして、待っていることさえ忘れがちなほど、雑談を愉しむが、時々、問題のことを思い出し、答えはいつ来るのだろうと、さみしいような、ほの明るいような気分になるのだった。
沈黙の中に奏でられた音楽の、模様と地が反転して、沈黙が音楽のように聞こえてくるかのように。
そして、ゴクウ。
ゴクウは、かつて、三蔵と出会う前、釈迦に会ったことがある。
玄奘三蔵さえ、じつは経典の中でしか出会ったことのない釈迦。ゴクウがかつて釈迦にまみえたことのあることを、三蔵はうすうす気づいている。根に持っている、といっていい。それで、何かとゴクウには冷たく当たるのだ。
しかし、ゴクウは、それは悪いことではない、と考えた。本に書かれてないことを、お師匠様が体験する糸口になりはしまいかと思ったから。
書物の外に三蔵を連れ出すこと、それが孫悟空の悲願=彼岸である。
ゴクウが釈迦に会ったのは、ゴクウが世界の外に飛び出そうとした時のこと。
釈迦が作ったこの世界の外部に出たいと考えた。自分は自分で生きていく。他力の上に安住するなど、真っ平ごめん。それならいっそ、死をえらぶね。
そして、シャカの手の平から出ようとしたゴクウは、ただその上で遊ぶことしか許されない自分を知る。手の平は閉じており、その外はない。
しかし、ゴクウは外に出ることを、あきらめたわけではなかった。戦略を変えたのだ。
天竺にいく。世界の中心。そこで世界と時間が生み出されていると言う場所。運命をはかりごとする中心。秘密を知るのだ。
しかし、サンゾーと旅するにつれ、不安になる。
天竺はあるのだろうか。
自分たち一行は、じつはいまだ長安から外に出ていないのではないか。
ある夜には、ゴクウはサンゾーの日記を盗み読みして、自分がじつは日記に書かれたものに過ぎないのではないか、と疑う。
日記に自分たちのことが書かれているのは、不思議ではない。しかし、サンゾーは、日記を日々の出来事としてではなく、外国語で書かれた経典の翻訳として書いている。
外国語の読めないゴクウには、紙の上の染みにしか見えない模様から、サンゾーは言葉を読み取るのだ。
また別な夜には、ゴクウは、廃寺の地下に、巨大な経典工場を発見する。
そこでは、サンゾーそっくりの男たちが夜な夜な、膨大な経典を翻訳・出版し続けている。
元になっているのは、太古の一枚の岩盤で、カビが生え、虫が這い、雨しみで異様な模様が刻まれている。
男たちはそれを原典と呼び微細に研究する。そして、無数の文字を読み取っては、いくつもの解釈を捏造、翻訳と称して、無数の経典を出版し続ける。
経典おたのサンゾーは、まんまとだまされ、ここが天竺だと思い込むが、ゴクウはついに岩盤を破壊する。
破片を拾い集めるサンゾー。
天竺は見失われた、といって、サンゾーは旅の目的を、世界中に飛散した破片の採集に変えてしまう。
天竺を示す無数の道しるべ。
しかし、天竺は見つからない。天竺は、サンゾーの妄想だったのか。そして、その妄想も、今は消滅しているのだった。
玄奘三蔵の前にも、無数の三蔵がいて、彼らが天竺におもむき、「経典」と呼ばれる世界の秘密の断片を、この世にもたらした。
それは、天竺にある外国語の原典に基づく翻訳とされるが、天竺は失われ、もう原典はないともいわれる。
翻訳だけが残るが、じつは初めから原典などなかったのではないか。
閉じられた釈迦の手の平の中の罠だ。中心の欠如。どこにも中心がなく、どこも中心である。それは答えではなく、問題の消滅だ。
閉所恐怖におちいるゴクウ。
果たして、孫悟空は、手の平の外に出ることができるのか。
八戒の空腹は満たされるか。悟浄の待ちぼうけは叶えられるのか。
そして、三蔵法師は天竺にたどり着けるのか。
続きは2006年、九十九夜で。
]]>というわけで、来年だ。2006年のベスト本を五つばかり。
過ぎ去りし日々のことは忘れても、未来のことならおぼえている私です。
年末恒例企画のような気もしてきましたヽ(´ー`)ノ
長くなったので、二つに分けました。まずは、五位から三位まで。
残りは除夜の鐘の鳴る頃に。
第5位 「ジョセフ・ブログの生涯」
ブログの創始者、ジョセフ・ブログ。
9世紀ノブゴロドに端を発するブログ家、その第66代当主であるジョセフの、幼少時の思い出から物語は始まる。
少年ジョセフはお屋敷の地下を探検中、コウモリたちの群れに出会う(ちなみに「バットマン・ビギンズ」の原作は本書である)。
そして地球の内部はブログ家代々の努力により、掘りつくされ、空洞になっていることを発見する。
お宝探しの家系であったブログ家は、掘りに掘ったすえ、ついに地球内部を掘りつくしていたのだ。
お宝はなかったのだ。空っぽだ。
しかし、ジョセフは発想を逆転する。
コウモリを手なずけ、伝書コウモリに仕立て上げ、世界最短距離の通信網を構築。誰もが知る、インターネットの起源である。
ジョセフの自伝「空虚から生まれた富」は21世紀最初のベストセラー。
しかし、本書では、自伝で語られなかったジョセフの素顔が描かれる。
スパムコメントを阻むため、お色気メスコウモリによって、スパムコウモリを一網打尽にするなど、奇抜な発想で世界を変えていく、ジョセフ・ブログ 33rd。
さらに本書では「最初のトラックバック」の謎が初めて明かされる。
それは13世紀、ブログ家第11代の頃。ノブゴロドはいわゆる「タタールのくびき」のもとにあった。
ブログ家の紋章である、虎と戦う豚のようなケモノの図柄が定められたのも、この頃だ。
豚のようなケモノは、獏。虎はモンゴルを表し、強敵に対して表立っては戦わないが、夢の中でそこはかとなく浸食する獏として、ブログ家は時代を生き延びたのだ。
すなわち、「虎、食う、獏」。トラックバック…。
この時代の無名市民たちの通信を記した白樺文書は、ブログの真の起源だとされている。
]]>作者あとがきより抜粋…
「完成より前に、まずあとがきができましたヽ(´ー`)ノ
九十九夜は、99の夜という意味です。99というのは百から1を減じた自然数です。
それは漢字では白となります。
99夜すなわち白夜というのは夜が白いこと。夜なのに白昼のように太陽が出て明るい状態です。
しかし、夜というのは太陽が沈んだ状態を指すのです。矛盾。
なぜ太陽出っ放しなのに、夜が来たことがわかるの。境目とか、どうやって決めるの。いや、決められまい。
シェヘラザードは無限に語りつづけねばならないのです。
するとそれは一夜ということになってしまいはすまいか。まいっちんぐ。
かくして99と1は等号で結ばれます。
九十九夜の完成は、99に1を代入することで、たかだか一夜を意味するだけとなり、ゆえに九十九夜は未完であり、まだまだつづくことが、証明された。」
第3位 「うるう病」
2006年1月1日、うるう秒が挿入されるらしい。
しかし、うるう秒、という表現は、変ではないのか。
一秒だけ増えるのが「うるう秒」というなら、2月29日を1日だけ足すのは、「うるう年」ではなく、「うるう日」にすぎないのではないか。
いや。それとも。
…「うるう年」もあるのか。すでにあったのか。
いやに長い一年、うるう年。それもそのはずだ、一年余分に付け足されている。
うるう世紀というのはどうだ。
21世紀は、前世紀に比べて、何か新しいものになっているだろうか。おまけになってはいないだろうか。あってもなくてもいいような繰り返しに。
うるう人生。
なんだか、生まれてこの方、余生のような人生だ。本当の人生はどこへ行ったのだ。
うるう世界史。
人類は、地球の歴史にとって、うるうにすぎない。余計物。
こうして、「うるう」のヒミツに気づいた僕たちは、「本当の時間」を求め、旅立つ。
うるおいに満ちた余生を捨て、失われた時を見出すべく、砂漠へおもむくのだ。戦いは始まったばかりだ。何と戦っとるんだ。うるうるうるうる。
謎のヒロイック・ファンタジー?
不気味の谷現象とは、谷亮子が、完璧に近づけば近づくほどイヤミなセレブな人生になってしまう現象を解明したものです(美頬さま説、座布団五枚差し上げます)。
さて、今頃になって、書こうと思ってた「続き」を思い出しました。
この年末のあわただしい時期に、じつにのんびりした展開になっております。
でも、せっかく思い出したんで、「続き」の内容をかいつまんでご説明しておくと。
]]> 戦後の日本、昭和30年代40年代くらいまでは、稚拙な社会でしたが、夢があった、なんて言われます。一方、平成の世の中は、細かいところまでぴっしりと配慮が行き届いていて、ちょっとしたミスでも大げさに過失が指摘される。
完璧までもう一歩…のはずが、かえって不愉快で、いらいら棒が募り、アラが目立ちまくる。
夢見る余地はなくなり、完全さへのわずかなズレが気になって仕方ない。
中にはイライラに耐え切れず、意味不明で自暴自棄の取り返しのつかないハチャメチャに脱線転覆してしまう人たちもいる。
これは、不気味の谷現象と、よく似てはいませぬか…という話を書こうと思ってたんですよ。はははは(虚笑
ああ、ちゃんと書いてれば、ええ記事になっとたのに(爆
ゲームの話を枕に、現代の世相を斬る…素晴らしい展開だ、ブログの鏡だ(ウットリ
まあ、不気味の谷現象の説明によれば、完璧に近づけすぎないのが、夢見るための大切な条件…「秘すれば花」なので、こんなんで、いいんですよね。稚拙はほめ言葉(慰
ところで、不気味の谷グラフでは、完全さ(リアルさ)が100パーセントになると、親しみやすさも急速に回復して、100パーセントになるように設定されています。
でも、「よりよい社会」というようなものの場合、完璧さが100パーセントになることは想像できない。
99パーセントが、99.9パーセントになり、99.99パーセントになり…と、近傍には近づくけど、完全そのものになることは、けっしてない。
すろと、完璧さを目指せば目指すほど、「不気味の谷」は無限に落ち込む可能性がある…のかもしれません((;゚Д゚)
どんどん進化するCG…ですが、悩みもあるのだとか。
不気味の谷現象、と呼ばれるもの。
たとえば人間をCGで描く場合、リアルになればなるほど、なにか不気味さがにじみ出てくる。
単純な線画で描いていた時は、かわいくデフォルメされたキャラクターだったのに、リアルな人間に近づくにつれて、なんだかゾンビみたいな不気味な質感がただよってくる。
ロボット工学では以前から知られる現象で、東工大の森政弘博士が1970年に論文を発表。
親しみやすさを縦軸、リアルさを横軸にグラフを書くと、リアルさが増すにつれて、途中までは親しみが増すのだけれど、あるポイントでガクンと親しみやすさが落ち込む「谷」ができる、というもの。
なぜこんな現象が起きるか。
「情報の少ない絵」だと、人間の目は、不足している情報を補う。好意的に補完する傾向がある。ほのかなユートピアを夢見るんでしょうか。
でも、情報量が「完全」に近づいてくるにつれ、今度は逆に「欠けている部分」に目がいくようになってしまう。アラが目立つ…ということらしいのです。
CGが発達し、ゲーム業界がこの現象に悩まされている、という話。
最近ちょっと話題になってるんだとか。
★続きを忘れる
で、ここまで書いて、休憩をとった。続きはあとで、と思っていたのだけれど、さて何を書くつもりだったか、忘れました(;・∀・)
なんかね、最近の出来事とか流行とかいったことで、この「不気味の谷」現象とよく似たのがあると指摘しようとしてたんだと思うんですが。うーん、何だったか…思いだせん。
姉歯…は関係ないよなあ。寒波もまったく関係なさそうだし。鳥インフルエンザもちがう。HGは…かすりもしてない。インリンさまは引退するのかなぁ。
★閑話休題
というわけで、続きを忘れたので、別な話に。閑話休題…というか、すでにここまでが閑話のような状態ですが。
別な話しねぇ。急にいわれてもなあ。思いつくものが…。
そう。「思いつく」といえば、乱歩に「心理試験」という短篇があって、精神分析で使う自由連想テストの話が出てくる。
ランダムに選んだ単語を次々と読み上げて、そこから連想する単語を被験者に答えさせていくというもの。
考えて答えるのじゃなくて、パッパッパと反射的に思いつく語を答えていくので、意識の働く隙がなく、無意識的な判断がなされる、ということ…だった気がします。
異様な連想とか、あるいは連想するまでの時間なども計測して(この時間が乱歩作品では鍵になってる)、いろいろ分析するらしい。
でも、こうした反射的な連想って、ふつうにこうしてものを書いたり、人と話したりする時にも、同じように働いていないだろうかと、ふと思ったことがあります。
Words are flowing out like endless rain into a paper cup...
ビートルズの Across the Universe じゃないけど、母国語で話すかぎり、言葉は次々と自然に浮かんでくるし、何の気なしにどんどんしゃべることが出来る。
無意識でどんどんしゃべっている。「流暢に」という表現のとおり、流れるように、そして暢気の「のん」でのんべんだらりと、なにを意識するでもなく、どんどん話す。
じゃあ、言葉って無意識なのかな。
でも、意識とは言葉のことだと、ふつうなんとなく信じてるようにも思う。まさに、この心の中で次々思い浮かべる言葉が、考えるということだし、意識の実体であると。
今こうして書きつけてる言葉もそのようなもののはずなんですが、それは意識とは別な何かが発話しているのか。意識はそれを傍らで無力に呆然と見つめるだけで。どうなってるのか。
言葉は無意識からどんどん流出して、意識はじつは、たんにそれを追っかけてるだけだとすれば。
追いかけて、あとになってから、あたかもそれを自分で表現したかのように詐称して、自分の手柄のように、自分の実体のように思いなしている、というようなことかしれない。
話したり書いたり、自分で表現する時だけではなくて、読む時は、もっと自由連想的ではないだろうか。
読む…読める、ということは、読んでる言葉とかイメージから、猛烈にいろんなことを連想している。しまくっている。
その証拠に、未知の外国語で書かれた文章は、読めない。
なにをどう連想したらいいかわからないから。自由連想が働かない。
知ってる言葉で書かれたものを読んでる時は、とめどない連想が湧き出て、駆けめぐってるわけですが、そのとき何をどう連想しているかを、はっきりとは示すことはできない。連想はほとんどバックグラウンドで処理されているように感じる。
それはもうそこはかとなく、「流暢」に連想の濁流に押し流されている。
つまり、読んでいる主体は、意識ではなく、無意識ではなかったか。
…というようなことを、ふと思ったりもしたよ、という閑話休題でした。まあ、だいぶうさんくさい説なんですが、とってつけた話ということで。
それにしても、何が「不気味の谷」に似てるんだろう。気になるなあ。
★言葉の話を続ける
「不気味の谷」は思い出せないので、もうちょっと言葉の与太話をうだうだ続けると…。
母国語だと、自由連想っぽく、どんどん言葉がついて出てくるけど、これが勉強中の外国語となると、全然そういうわけにはいかない(笑)
覚えたての外国語だと、使う時、それがどのテキストのどこに出てきた表現か、映画のどのシーンで誰がしゃべってた言い回しか、はっきり意識しながら話します。
つまり、使ってる言葉は、他人の言葉で、それを「他人の言葉」と自覚する意識がある。そして、この場合、無意識はどこにもない。
たぶん、流暢な母国語も、最初の最初はそうだったんでしょう。でも、あまりにデータベースが肥大化しているので、もういちいちどこで誰が使ってた表現だったかわからんようになってる。出所は失われ、盗作し剽窃し著作権を侵害しながら、猛烈な引用の嵐の中で「流暢」に読み書き話すことができる。
無意識とは、いわば肥大化して、参照機能が不全になった巨大データベース。データベースは整理というか情報圧縮というか、勝手な連絡網をどんどん広げていて、意識の介在なしにいろんな迷路・地下道・近道・まわり道を生み出し続ける。
…と、どんどん勝手に胡散臭い説を立てているわけですが、ふとキーボードを叩く手を休めて、部屋を見渡す。
すると、目に入るものは、見えてはいるけど、ほとんどは「意識していない」。何か注意を喚起するものがあれば(例えば、ゴキブリが動くとかね、冬だからそんなことないけど…ないよなキョロキョロ)、そこに意識はいきはしても、それ以外は漠然と見ている。
目に入る世界は、本ほどではなくても、「読む」ことはできて、壁にひびが入っていたら、姉歯氏を思い出し、姉歯氏の顔を思うと古舘伊知郎が連想される。
見えている世界から受ける気分や連想はたくさんある。読んでいる。でも、どう読んでいるかはかなりあいまい。
言葉がそうであるなら、読まれるかぎり・見られるかぎりで存在するこの世界も、無意識から生じているのではないか。
このような世界のあり方を、仏教ではアーラヤ識というのではなかったか。
アーラ屋敷ではないのであって、この説自体も世界のうちに含まれ、その上言葉でもあるのだから、アーラヤ識というか、無意識であって、そのようなこととは何の関係もないのに、今ふとやしきたかじんを連想してしまったりもして(それもオネエ言葉を真似て、アーラ、ヤダンッとか言っている状態)、そんな私っていったい。
私じゃないんだ、私じゃないんだ、無意識なんだ。半端に汚されているせいで、世界の種が生まれるそうです。
★まとめる
短歌とか俳句とか詠む人って、flowing out ばかりじゃなく、言葉をしっかり吟味する。
その吟味は、意識的なもの、なのか。どうなのか。
しかし、意識による吟味は、flowing out に勝てるのか。何かを語ったり生み出したりできるのか。考える時、すでにその考えは、無意識的な連想に頼っているではないかと、すでに書いたではないか。
結局、最終的に、「この一語」を決定するのは、無意識。それなら一語も発さない手もある。ベケット。
…ああ、もうこの辺くらいまで来ると、自分でも何を書いているかわからないです。
いや、自分で何を書いているかわからないのは、はじめからだ…という話を書いているのだったっけ。じゃあ、この反省は何を意味するのでしょう。コギトでしょうか。わからないものをわかりたいと、叶えられない望みを望む心でしょうか。
それとも、flowing out (垂れ流し、とも訳してみる)した言葉を追いかけて、それを自分で生み出したかのように詐称しようとしているんでしょうか。何であるかもわからないまま。
「不気味の谷」現象は、横軸にリアリティを置き、それはこの世界そのものにおいて100パーセントになるはずなのですが、じつはこの世界そのものも完全に対してちょっとだけ足りないため、「不気味の谷」に無限に落ち込んでいくのかもしれない。いく、のか。なぜ進行形なのだ、自分。
一方、中途半端な情報だけ与えられた時、空想することが出来るというユートピアって、いったい何なのだろう。神?
…と、垂れ流された言葉をむりやり、まとめるのであった(;・∀・)
何の話かぜんぜんわからないですが、話自体がその言い訳にもなってもいるのです。
やっぱり、でも、あのグラフと同じ形のものを、どこかで見ている気がまたしてきた。。
ともあれ、ようやくいえについて、ほっとしました。 いえにつくと、さっそくせきゆふぁんひーたーをつけて、とりあえずやふーどうがで
「えこえこあざらく」でもみようとおもって、ぱそこんをつけました。 ぴー、ぴー、ぴー。 ふぁんはひゅるるるると、なさけないおとをたてて、とまってしまいました。
しょうがないなあ。とうゆをほきゅうしなければなりません。で、
ぽりたんくのところにむかったのですが、そのとき、はたときづきました。 とうゆが、ない。 このごろ、ちょっといそがしかったので、とうゆをかうのをわすれていたのです。
そうだ。いっそのこと、すきーですべっていけばいいんだ。ちょうどさかみちだし。
そりもいいなあ。もうすぐくりすますだし、となかいさんがひっぱってくれるかもしれないぞ。 …だめだ。
えきからいえまではさかみちで、ゆきがこおっていて、いろんなひとがころびまくっていました。だつりんしているくるまもみました。
いぬでさえ、いやそうにさんぽしていました。
そのときでした。
とうゆがなくなりました。
ぴー、ぴー、ぴー。
とうゆがなくなりました。
へやはせいじゃくとれいきがしはいする、れいとうしつのようなせかいに。
あれぇ、どうしましょう(・e・)
がそりんすたんどまでは、いちきろくらいあるのです。とおいのです。
くるまもばいくもゆきにうずもれているのです。ちぇーんもまいたことないから、やりかたもわからんのです。
ちゅうしゃじょうのまえのみちは、すけーとりんくのようにつるんつるんにこおっているのです。
きびしすぎるげんじつをまえに、くうそうのせかいにとうひしてしまいました。
もうだめぽです。とうしするしかないのです。どうする、あいふる。
もうすっかりひがくれています。みちはますますこおっています。つるつるぴかぴか。
いきはまだよいのです。かえりがもんだい。18りっとるのぽりたんくは、すんげーおもいのです。
♪ゆ〜きのふる、まちを〜(だばだば〜)
ていおんではなうたをうたいながら、とぼとぼとあるいていきました。 くらいうたなのです。こうこうのせんぱいが、ゆきというおんなのひとにふられたとき、よくこのうたをうたっていました。 あのころもふゆでした。われわれこうはいは、「だばだば〜」というこーらすをたんとうしていました。
…それは、どうでもいいことでした。
ともかく、あるいて、とうゆをかいにいったのです。とおかったです。さむかったです。ろめんはつるつるすべすべ。まちはしろがね。
でも、ようやくがそりんすたんどまでとうたつしました。そこで、ふとさとりました。
18りっとるまんたんにしなくても、5りっとるくらいかえば、いいんだ、と。
なんてあたまがいいんでしょう(・e・)
5りっとるなら、らくしょうでもってかえれます。ははははは。かったな。なにに。
かえりははなうたもかえました。ゆ〜きや、こんこん、にしました。いぬもよろこびにわかけまわる。
うれしがって、ずんずんあるいたせいで、さんかい、こけました。てをついたとき、ゆびのつめがわれました。つめたいので、いたみもかんじませんでした。かえってみると、とってのところが、ちまみれでした。
でも、とうゆはししゅした。
これで、いきのびられます。さばいばるなひびがつづきます。みんなもがんばって、いきのびてくださいね。
えこえこあざらく、えこえこざめらく…
]]>西陣界隈を歩くと、町屋の屋根の上には、このように小さな神様がいて、家を守っています。
というそうです。一家にひとりの守り神。長いお髭がトレードマーク。
一軒一軒でそれぞれの鍾馗さま(微妙に姿かたちがちがう)。
「寒いのにたいへんですね」
「おう。髭が長いのであたたかじゃ。ソリに乗った南蛮の赤いヤツも、わしを真似て伸ばしておるじゃろう」
「冬場、外で働く人の知恵ですね」
「おう。いかつい面で悪を寄せつけん。しかし、見かけは鬼でも、心はほとけ。髭長族に悪いやつはおらん」
外には「鍾馗さま」、家の内側には、下のごとく、護符が貼られています。
しかも、平安神宮と御霊神社のダブル防壁。
いわば、ファイアーウォールと、アンチウィルスソフトと、スパイウェア対策をほどこしたかのよう。
町屋はそれでよし。
寺(サーバ)を守るのは、仁王じゃ。
というわけで、やる気満々の仁王は、この猛烈な寒波の中、へそ出しルックで頑張ってます。
クライアントの皆さんが心配して、わらじを編んだだよ。
仁王さん、ご苦労さま。風邪、お召しになられますな。
異常に寒い日々がつづいております。皆様もご自愛なされますことを。
]]>先週のウルトラマン・マックス。「狙われない街」。
なかなか好評だったようです。視聴率もよかったんじゃないでしょうか。ネット上でもたくさん面白い感想が出ています。
(→美頬さんがこの番組に捧げておられる、すごい短歌はこちら)
メトロン星人が地球に見切りをつけて故郷に帰る、というお話。
だってもう、地球は侵略するに値しない星に、なってしまったから。
・トイレが詰まった時、パコパコやる道具(名前がわからん)→これ
・永谷園のお茶漬け(増量サービスパックか。)→拡大図
・メトロン星人のソフビ(ちゃぶ台つき)→これ
・夕焼け。
などなど。
なんて昭和なおみやげでせう。
夕焼けを眺めて、メトロンさんは、
「地球の夕焼けは美しいなあ。
とりわけ日本の黄昏は。
…この陰翳礼讃がなによりのみやげだな」
ウルトラマン・マックスに無防備にも背を向け、腰のあたりで後ろ手に組みながら、メトロンさん、独り言のようにしみじみとつぶやく。
土曜の朝の子ども向け番組で、陰翳礼讃攻撃は強烈すぎ。朝7時55分に、すでに思いっきりたそがれちゃっています。
ウルトラマンマックスも手出しできません。テレビの前のよい子のみんなもマネできない。
夕焼け小焼けで日が暮れて、平成の中、消えゆく昭和なのです。
★未来になってみて
「狙われない街」は、昭和47年放送のウルトラセブン「狙われた街」の続編。
金城哲夫の脚本による38年前の作品は、こう締めくくられていました。
メトロン星人の地球侵略計画はこうして終わったのです。
人間同士の信頼感を利用するとは恐るべき宇宙人です。
でもご安心下さい、このお話は遠い遠い未来の物語なのです…。
え、何故ですって?
…我々人類は今、宇宙人に狙われるほど、お互いを信頼してはいませんから…
このあとを受けての、遠い遠い未来、平成17年「狙われない街」。
とてもブラックでシニカル、またさびしい気持ちにさせるお話。もうちょっと積極的なメッセージもほしい気もする。
たしかに、メトロンさんの言動を中心に見た場合、そんな感じはするのです。
ただ、この作品の主人公は、六平直政演じるところの刑事。(渋いです。濃いです。どアップです。朝の番組とは思えません。)
ヘビースモーカーで、いまだに携帯電話も持たない、昭和のままの中年男。
宇宙人よりももっと怖いもの(=人間)を知っている男。
彼が平成を生き延びる物語でもある。
★平成の中の昭和
刑事はじつは少年の頃、メトロン星人を知っていた。
セブンのアイスラッガーで真っ二つにされたメトロンを、少年の頃、彼と彼の祖父(?)がかくまい、治療してやったから。
あの時代、あの場所には、「お互いの信頼」があった。排除され敗北した侵略者との間にさえ。
その思い出を胸に隠し持って、平成を生きる刑事。六平直政のオヤジな肉体の中には、昭和少年が息づいている。
平成の今。
悪いやつを見つければ排除する。不祥事があれば責任者を見つけ処罰する。
ところが、守るべきものを高い塀で取り囲み、セーフティ・ゾーンを作ったつもりだのに、悪はいつも内部から発生する。
どうしたことだ。
…もっとも恐ろしいのは、人間だから。
希望の見出せない世界で、刑事は「生きろ!」などと叫びはしない。
去っていったメトロンに思いをはせ、
「もしできることなら、オレも連れてって欲しかったな」
とふとつぶやきもする。しかし、刑事は生きていく…心はメトロンと夕暮の中にあるけれど。
「じゃあな。事件が山ほど待ってるんでね…宇宙人よりもやっかいな」
そうカイト隊員(青山草太)に捨て台詞を残して。
それに対して、カイト=ウルトラマンマックス、
「あの人の言うとおりだ。やつは、この星に見切りをつけて、故郷の星に帰っていったんだ」
「でも…」と反論の言葉を探しあぐねるミズキ隊員(長谷部瞳)の言葉で、唐突に物語は断ち切られます。「でも」のあと、なんと続ければいいのだろう…フィルムは途切れてしまうのでした。。
★昭和と平成
「狙われた街」と「狙われない街」。
どちらもメトロン星人の登場は、川にさかさまに映った姿。(左セブン、右マックス)
でも、川がきれいになっている。
街から工場がなくなったせいだ。
それが昭和と平成の違い。
昭和の風景。
夕暮れの土手の道。お化け煙突の向こうには、あかね色の空。
河原で野球をする少年。
かごを下げて買い物に行くお母さんたち。豆腐屋のラッパ。
機械油の染みた父の工員服。
駅前の高架下には焼き鳥の屋台。
叩いてなおす真空管のテレビ。
土管の置いてある空き地。
工場を中心に、そこで働く人々の生活空間として、街は出来ていた。
昭和「狙われた街」は、材木置き場で遊ぶ子どもたちの姿から始まり、背景には大きな工場が見える。耳をすませば工場の音。
そして、パイロットだった父が死に、人がいっぱい集まった葬式シーンに続いていきます。
平成「狙われない街」は、マンションだかホテルだかの建築現場を映したあと(姉歯?)、雨漏りしてそうな廃工場(?)から始まる。物がなくて、すっからかん。耳をすませば、犬に吼えられる野良猫の声。
お寺のシーンでは人影は見えず、ただお経の音が流れ続ける(高齢化社会の象徴?)。
このところ、昭和ブームといわれ、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」も好調だそうです。「オトナ帝国の逆襲」もあった。
そこでいわれる「昭和」とは、戦後の昭和30年代40年代のこと。日本が、自動車・機械・電化製品など世界商品を生み出し続け、豊かになっていった時代。働けば働くほど、社会は豊かになった。「未来」が思いはせられた。
平成の今、その時代が懐かしまれています。
現在、日本のマネーは海外に流出している。国内に投資しても有効に機能しないから(例えばダム建設)。そして、投資なき場所に拡大生産はない。工場は今では中国やインドにある。
国内の富はたぶん減少していて、その取り合いをしている真っ最中。
ものづくりの仕事や労働者の連帯は消滅(理系離れ、組合形骸化)。
工員になるはずの人々は、行方を失ってあぶれている(リストラ、ニート)。
海外投資する財産のない人に、今残された仕事は、主にサービス業。
機械に接するのは得意でも、人に接するのは、だましているようで、気が悪い、と思うような気質の人々。
コミュニケーション力がないといわれ、引きこもる。何をすべきかわからず、「とりあえず犯罪」というような犯罪者が出現。
サービス業に従事してみれば、職業訓練と称して「お客様にはジャスト・セイ・イエス」と奴隷根性を叩き込まれる。客は無理難題言いたい放題。サーバント。口答えしようものなら、「お金は払ってるんだから」。
ローンして、流行しているムダなものを買い、未来の賃金もすでに奪われている。腹いせに、自分が客になったときは、無理難題言いたい放題返し。
1日300円の食費で、スーパースターという宝くじより確率の低い夢を目指す若者たち。どうする愛フル。
…と、いつもより大目に悲観してみました( ;´Д`)
お手てつないで、みな帰ろう。
カラスといっしょに、帰りましょう。
過去においては未来にあると信じられ、未来においては過去にあったと呼ばれる「お互いの信頼」。
昭和と平成の作品が、「存在し得ないもの」をめぐって、奇妙にループします。
■ウルトラマンマックス 第24話「狙われない街」
放送日:平成17年12月10日
監督:実相寺 昭雄
特技監督:菊地 雄一
脚本:小林 雄次
円谷プロ/CBC 2005年
(図1・2・3・4・6・9、その他)
■ウルトラセブン 第8話「狙われた街」
放映日・昭和42年11月19日
監督・実相寺昭雄
脚本・金城哲夫
特殊技術・大木淳
円谷プロ/TBS 1967年
(図5・7・8)
今年は寒いです。
先週、京都市内は早くも初雪でした。その二日後、比叡を写したのが、この写真。
ある高さを境に、秋と冬の切れ目が、くっきりと。雪と紅葉が戦っています。冬将軍の前線基地が、もうそこまで来てる。
同日、岩倉はすでに将軍の軍門に下り、雪ダルマがあちこちに。
修学院など北大路以北の地も、間もなく陥落しそうです。
今年の冬は長そうだ。。
]]>その原因は、深爪。
なぜ、深爪してしまったか…といえば、それは、最近読んでる「正法眼蔵」の、この文章に由来するのです。
十指の爪を切るべし。十指といふは、左右の兩手の指の爪なり。足指の爪、同じく切るべし。
經にいはく、爪の長さもし一麦ばかりになれば罪をうるなり。
しかあれば、爪を長くすべからず。爪の長きは、おのづから外道の先蹤なり。ことさらつめをきるべし。
−道元「正法眼蔵」 第五十四 洗淨
「ことさら、爪を切るべし」
激しい言葉です。ことさらです。道元です。
この後にも、故事を踏まえて、長い爪がいかに道を外れた行為であるか、滔々と述べられています。
それはあたかも、東光特等少年院に送られた矢吹丈にあてて、丹下段平がよせた、明日のために(その1)、
「やや内角を狙い、えぐりこむように打つべし」
にも匹敵する冷徹なる激しさ。
それで、切ったよ、ことさら、切りに切った、爪。
深爪で、キーボード入力するたび、いちいち痛いよ。
…( ゚д゚)ハッ!、思わず、道元に喝を入れてしまった(ナイアガラ滝汗
ともあれ、「洗浄」という章では、この後、野グソをしたあと、どうしたらきれいにできるかについても、事細かに語られています。
ちょっとよけいなお世話です。自分で何とかしますって。できますから。仏陀がクソベラであろうとなかろうと。
喝ッ!
難解で知られる正法眼蔵ですが、こんなのもあるんです。
道元に喝(ツッコミ)を入れながら、読んでみるのって、そんなに禅の本質から離れてないのではないか、ともシロウトの怖さ知らずで思ったりもします。
仏教って、維摩っていう無謀なアキンドが、強烈なツッコミを入れることで、引きこもりがちな小乗から、大乗の慈悲に出られたという病歴を持つのだから。
正法眼蔵入門、おすすめの一章です(* ^ー゚)
P.S.ジョーヤブキのノーガード戦法は、禅だ。(ホセ・メンドーサ)
]]>というわけで、これでございます。
本というか、見ての通り古文書。
親戚(「本家」と呼ぶよう指導されている)の蔵から発掘してきたもので、莫大な量があります。ここに写したのの、数百倍くらいの量がありますだ。
いちばん古いものでは、元禄。
何の古文書かというと、権利書や商売や問屋とかの許可証というのか、証文の類です。
なぜにそのようものがいっぱいあるのか。
]]> このようなストーリーを思い浮かべてください。時は元禄。瀬戸内のとある藩。港はさまざまな文物でにぎわう。…まあ、思い浮かべてもらっただけで、フィクションであり、実在の人物・団体とは関係ないのです。ないんですよ、ほんとに(;・∀・)
港の商いを一手にになうキキョー屋(仮名)は、悪代官とつるんだ悪徳問屋。
街の顔役でもあって、商売がうまくいっている店を見つけると、二代目の若旦那と懇意になり、賭場にさそう。
「いやあ、若旦那はん。さすがや。商売も上手なら、博打のほうもなかなかのもんや。とても初めてなさるとは思われまへん!」
と最初はおだてておいて、むちゃな掛け金吊り上げて、有り金残らず巻き上げる。
「ほな、若旦那はん。今日のところは、うちからの貸しということにしときますさかい、気の済むまで遊んでいきなはれ」こうして膨大な借金を抱える若旦那。ついには、店の権利書を持ち出して、
「これで最後のもうひと勝負、お願いします!」
「ほほう。店の権利書でんな。ええでっしゃろ。ま、お気の済むまでやりなはれ…ただし、これがほんまに最後の最後ですぜ。これを南蛮では、M&Aと呼ぶんだす。ひひひひ」
こうして、先代が血と汗で築き上げたお店は、悪のキキョー屋(仮名)によって巻き上げれてしまうのであった。
自分の愚かさにようやく気づいた若旦那は絶壁から身を投げ、翌朝死体は浜辺に打ちつけられる。「えらいこっちゃー! 若旦那はんが! 若旦那はんが!」
早朝から若衆が訃報を持って駆け込んでくる。店の番頭(高倉健)は、
「チキショーッ。おらあ、もう、ガマンできねーッ」
となぜか江戸っ子風に駆け出していくのであった。
店の奥では、病身の先代が激しく咳き込む。その背をさするのは、二代目の嫁であるところの、藤純子(じつは番頭・高倉健と幼なじみで、本当は好きあっている)。
カメラは駈けていく健さんの背中を追う。行く手には、キキョー屋(仮名)の屋敷が黒々とそびえている。
そして、ラストの壮絶な果し合いへと、物語はなだれ込んでいくのであった。。
ともあれ、よんどころない事情で、ご先祖様が所有するところとなった権利書のたぐいでございます。
権利を譲り受けるにあたって、理由が記されたものもあり、「前任者の怠慢のせいで地域の風紀が乱れたから、この者に権利を委譲する」というようなことが書かれています。
地域の顔役だったということなんでしょうか…端的に言えば、前に権力を握ってた組に勝ったというか(´ヘ`;) 「風紀が乱れていた」っていうのは、抗争状態にあったんでは。。
すごい崩し字のもあって、あんまり読めないんで、詳しいことはわかんないんですが、商品ごとに権利というか免許というか、そんなのがあったみたいに見えます。なにかあくどいやり口が垣間見えなくもないです。
金(銀)の貸し借りと穀物相場のものも多いです。不漁不作、火災などの際の、救済費用捻出のいい話もあります(それが顔役の仕事らしい)。
鯨取りの件もあって、鯨はすでに獲れてて、鯨を売る権利が誰にあるかをめぐる話のようです。鯨の巨体を前に、いろんな人が出てきてややこしい。鯨を獲ってしまった後で、売る話を始めるのが、のんびりマヌケで、落語みたいで面白いです。
「本家の蔵」は、子供の頃おじさんに聞いた話では、人魚のミイラもあるらしいです。テレビも取材に来たとか言ってましたが、おじさんにだまされてる可能性が高いです(たいてい嘘しか言わないヒトだった)。
遠いんであまり行けない本家ですが(地理的に遠いというより、端的に言って、母が仲が悪いw)、行った時は、親戚から顰蹙を買いながらも、蔵をガサ入れすることにしています。
イトコはときどき入って、めぼしい品をヤフオクで売りさばいているという噂です。おぬしもなかなかの悪じゃのう、とご先祖様は苦笑いしてるにちがいない。
この古文書を私が持ち出したことはみんなに広まっていて、私はこれを活字に起こす使命を暗黙のうちに引き受けさせられてるらしい。
夏休みにイトコから、「あれを全部読むのは大変やろ」と唐突に慰めの言葉をもらい、そのことが発覚しました。
そんなこと、できんちゅうに。私は古文書読んだり出来ませんて。もーカンベンしてくださいよー。
もうすぐお正月なので、親戚とも会うかも知れず、たいへん危険なかおりがします。怖い人も多いしなー。懐にはドスを忍ばせて、お正月を迎えたいと思います。(ダメだ、こんなこと書いたら、めっちゃ怒られれそうだ…本家との仁義なき確執が再燃か!)
[鯨の件、追記]
文書を読み直してみると、鯨の件はこういうことらしいです。
まず、瀬戸内海で鯨がとれ、ご先祖様のシマである港に水揚げされる。
鯨はかなり珍しい。さてこれをどうしたものか。
解体の仕方がわからないということもあるけれど、クジラにもクジラ市場があって、クジラを商うのにも権利やら特権、特許や著作権がある(笑)。
とにかく勝手に売買すると、どこから文句が出るかわからない。相場も変動すれば、多方面に迷惑がかかる。
それで、他藩も巻き込んで、許可を取りつける騒ぎに。
江戸時代後期、何をするにもとにかく、各方面の既得権益者の調整が必要。それで証文がいっぱいになっちゃうようです。
しかし、そうこうしてるうちにも、クジラはどんどん腐っていくのであった。
…なんてマヌケな話なんだ…現代といっしょですね。「ええじゃないか」も維新も、そう遠くない時代の出来事なり。
さて、来週のウルトラマンマックスは、実相寺昭雄監督で、なんとあの名作「ウルトラセブン・狙われた街」の続編(?)が登場します。
題名は、「狙われない街」!
メトロン星人、そしてちゃぶ台も再現されるもようです。
先週(11月26日放送)の「胡蝶の夢」も実相寺監督作品で、これは秀逸なメタフィクションでした。
子どもが見ることなどまったく想定外。ウルトラマンシリーズであることさえ二の次。監督がやりたいことをやる。
しかし、これこそが、実相寺監督のむかしからやりかた。歌番組で、美空ひばり(だったか)の鼻の穴をアップにしすぎて干されることから、映像のキャリアを始めた人ですから(;・∀・)
来週が楽しみです。忘れんようにせねば(その目的でこの記事は書かれた)。
■怪獣のあけぼの…「怪獣の父」高山良策の生涯を描くドキュメンタリー。実相寺昭雄監修。Gyaoで放送中です(現在第6回)。
]]>かつて、mp3は、人類の敵であった。人類はmp3によって滅びる運命にあったのです。
それが今ではどうでしょう。
手のひらを返したような、このありさまはヽ(´ー`)ノ
電機メーカーはこぞって、mp3プレーヤーに取り組んでおられます。
ipod登場のおかげですね。
iTunes Music Storeのダウンロード数は、5億曲突破(2005年7月)。
儲かればそれでいいんだ。別な言葉では、ビジネスモデルの創生ともいう。
というか、いいのかな、こんなんで、ともちょっと思いますけど。
…イラク戦争と同じコンセプトでないような気がしないでもないでもないです。
ま、ともあれ、あのUGなmp3が、こんなに華々しい存在になったとは、ほんとに隔世の感があります。隔世といっても、十年もたってないのが、すごい世界です。ナプスタも遠くなりにけり。
さて、パソコンで音楽聴くとき、どんなソフト使われてますでしょう?
iTunesやWMPとかでしょうか。winampを使われてる方も多いのでしょうか。
どのソフトが音が良いのでしょう。
「いい音」って、難しいです。
「専門家」が良いといってくれるものが、必ずしも自分にとって「いい」とは限らない。
たんに音響学的な良さだけじゃなくて、聴くジャンルなんかも関係がある。聴き方も、BGMとして聞き流すのと、静聴するのではちがうでしょう。
スピーカーやアンプ、お部屋の残響の具合、そんな兼ね合いもあると言われます。たいへん小難しい世界です。
最後は、自己満足・自己催眠もとても重要(笑)
私は、今はfoobar2000を使うことが多いです。あとApollo、ときたまwinamp(with Shibatch mpg123プラグイン 改悪バージョン)。
foobarは、すごくカスタマイズできます。理系好みw
プラグインを利用して、いろいろ使い勝手よくできます。うちはいろんなジャンルの大量の楽曲があるので、さくさく選曲できて、とても便利です。
以前はいろんなプレーヤーを試したなぁ。。
音がいいといわれるのは、Sound Player Lilith とか Audioactive Player。
Audioactive は、古いソフトですが、ひょっとすると今でもいちばん音がいいかも。でも機能が少ないのが難点。いや、インターファイスが絶望的にダサいことをのぞけば。
ソフトによって、たしかにずいぶん音はちがいます。デフォルトの音の調整の仕方もある。
もっとちがうのは、CDの音源をパソコンに取り込むとき。リッピングとエンコード。
CDexとLAMEを使ってます。EACもときどき。
iTunesで取り込んでおられるかたがおられたら、それはもう「何をやっとるんじゃ、このボケッがぁ」な叫びをこめつつ、おずおずとLAMEをおすすめしたいです。あからさまに音がちがうのです。
ただ、LAMEは奥が深くて、それはもう地獄のように奥が深いです。
ネ申、とかがおられる聖域です。コマンドラインオプションについて、今度、三日三晩語り明かしましょう。バージョンアップするたび、音の感じが変わります。どうしたらいいか、ほんとはもう、よくわからないです。ネットでテキトーな教祖様を見つけては、言われたままに従っています。
音楽好きだけど、パソコンにはほどほどにしか詳しくない人々、どないしておられますでしょうか。
私は最近、フラメンコを聞くことが多いのですが、フラメンコ、どうしたらよく聴けるのだろう。アンダ、アレィ、アニーモ!
しかし。
どうやら、それは考え違いだったようです。
むしろ、まだまだ力説が足りない。記事も短すぎる。
それは、すなわち、料理への愛情が、まだまだ中途半端だからだ。
そう考えを改めたのは、これを見てしまったから。
狂ってるすばらしいです。異形偉業です。目次だけ引用すると。
目次先月には、「第1回・日本たまごかけごはんシンポジウム」というようなイベントも島根でおこなわれていたようです。
1 作り方
2 食べ方
3 日本の食文化の中での位置づけ
3.1 歴史
4 卵の生食
5 卵かけごはんと健康
5.1 栄養
5.2 アレルギー
6 様々な卵かけごはん
6.1 トッピング
6.2 調味料
7 関連イベント
8 関連資料
9 関連事項
10 外部リンク
どうやら一部では、たいへん盛り上がってるらしい。たまごかけご飯。
知らなかった…。知らなかったのは私だけ?
なんだか最近、ニッポンにうまくなじめぬです…。
[追記]
その後、人から聞いたところでは、やっぱり玉子かけご飯は、ブームらしい。今朝もとくダネ!で取り上げていたと言う。とくダネ!よりは早かったわけですな。勝ったよ、小倉さん。
村おこしのプロジェクトとして、玉子かけご飯ブームは仕掛けられた、ということらしい。
そういえば、楽天で調べてると、超高級玉子は、やたらと京都府のもの(美山町とか)が多かったです。
昭和ブームともシンクロしてるんでしょうね。たまごかけご飯。
たいへん、きつかったです。
時間的には二時間弱くらいでしたが、坂が急なこと急なこと。
久しぶりに足が棒になりました。これから一週間くらい、筋肉痛に苦しめられるかと思うと、ちょっとへこむ(´ヘ`;)
修学院・雲母坂から登りました。
途中の見晴らしのいい場所では、このような秋山の絶景も見おろせます。
きらら坂は、むかしから利用されてきた登山道。しかし一方では、あまたの血塗られた歴史を持つ道でもあります。
クルマやケーブル、ロープウェイで何の気なしに登ってるときは気づかれることのない、血のにおいのする比叡山の裏の顔を、垣間見てしまったかもしれません。。
★破られた結界
途中まで、中国人のカップルと前後して登っていました。
見晴台をすぎたあたりで、突然、女のほうが大きな声で(中国人はとにかく声がデカい)、男のほうに話しかけ始めました。
ケンカでもするのかと思ったら、急に引き返していきます。
顔が砕かれた仏像がありました。古いものです。高さ四十センチくらい。イスラム教徒の仕業でしょうか。
仏像の脇から、奥に伸びる道があり、進んでいくと、「浄刹結界」と描かれた石碑が。
結界?
でも、仏像の顔、砕かれてますが。
たいへん、不安な気持ちになりました。
破られた結界。
比叡山は国家鎮護の山であり、1200年にわたって京都の鬼門をふさいできたはずなのです。
京極堂に報告せねば。
★木喰上人
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
荒い息をつきながら、必死で山を登っていました。
午後二時前くらいのことでしょうか。山の中は暗かった。道は細くて急。
ここは、どこの、細道じゃ。
木々は紅葉しています。
しかし、美しいというよりは、心なしか、まがまがしい。おどろおどろしい。血の色。
結界の破れ目から、何か不吉なものが侵入しているのではないだろうか?
不意に、わき道から、老人が出てきた。
「こっちのほうは、なにかあるんですかな?」
と訊ねてきます。
老人が出てきたのは、わき道といっても、獣道。老人が出てこなければ、そこに道があると気づかなかった。
「こっちのほう」といわれても、こっちの道が比叡山に登る本道。
困惑していると、
「木喰上人」の話をし始めました。怖かったので、途中で逃げ出してきました。
木喰上人って何だったのだろう。たぶん、この字を当てる。なぜか知っている。
歩み去って行く私の背に、老人は「ファックユウ」と悪罵を投げつけました。なんとハイカラな、と思ったけど、今考えてみるとあるいは「白幽」といったのかもしれない。
白幽仙人とは、白隠禅師が白川の山の中で会って、病を克服する教えをさずかった人ですが。
これは、お地蔵さん。
どういうわけか洞窟のようなところにいらっしゃいます。白幽仙人は洞窟の中に住んでいたそうですが。
この付近には廃屋がたくさんあった。誰が住んでいたのだろう。
★顔がない、お堂がない
ケーブルカーとロープウェイの中継地点まで到達。
ほぼ登りきったわけです。
ああしんどかった。
それに、なんともはや…怖かった。中世の時代を旅してるような。
ようやく観光客の姿も見えます。いつもはうざいと思ってる観光客の団体も(汗)、今は見かけるとほっとする。
しかし、観光客はケーブルからロープウェイへ。
私はサイの角のように独り、道しるべにしたがって、釈迦堂・根本中堂へむかう。
まだ、距離はだいぶあるようですが、急な坂はなさそう。
とぼとぼ歩いていきます。
人工スキー場が閉鎖中で、ススキヶ原と化していて、実にさびしい風景。一般的な「秋の京都」のイメージからはかけ離れた光景です。
でも。比叡山は本来、観光地ではなく修行の場だから、このような姿が本当なのかもしれない…などと考えながら進んでいると、また古い石仏を発見。
顔がない。
シルクロードの石窟の仏像みたい。結界を破って、何者かが侵入しているのでしょうか。
ときおり現われる古い道しるべをたよりに、進んでいくうち、広々としたところに出ました。
見晴らしはいいのですが、なんか不気味な場所。白い枯れ木が、日本海の岸壁の木のように、風の形に固まっています。
高山地帯みたいに、高い樹木がなく、開けている場所。
石が集められて、「御堂跡」と書いてありました。礎石だったらしい正方形の石が、まつられています。
根本中堂よ、どこへ? 仏教は滅んだのか?
…どうやら道を間違えてたようです。
ガーデンミュージアムのほうから行けばよかったのですが、近道をしたせいで、なにか大昔のお堂の跡に来てしまったらしい。
見知らぬ赤い樹木が、血の色に紅葉していました。杉のような常緑樹に似た木なのに、紅葉していた。末法の世?
★水女
いろいろ苦労したけど、ようやく釈迦堂に到着。
紅葉、きれいでした。
帰りは、道もわかったし、ずんずん進んでいきまいした。
ガーデンミュージアムにも寄りたかったけど、時間の都合もあり断念。
ふたたびケーブルとロープウェイの中継地点へ。
ケーブルカーで降りようかとも思ったのですが、ここまで来たら、帰りも徒歩と悲壮な決意して、山道へ。
下りは、登りよりは、ずっとラクだし。
日が暮れる前に下山したいので、かなり爆走しました。
途中で、若い女性とすれ違った。若い頃の藤純子そっくりの、りゅうとした美人。
こんな時間に、まだ山に登るのか、と不思議に思いながら、すれちがうとき、「こんにちは」と。
あわてて、こちらも、ぼそぼそした声で、「こんにちは」。
花の香りを残して、女性は背後に去っていきました。
しばらくして振り返ると、彼女はもうずいぶん高いところまで登っていました。異様に早足です。慣れているのでしょうか。
見ていると(見とれていると)、彼女も振り返った。笑った。キツネのようでした。白い。急に、どこから滝の音が聞こえた。女はこーんと跳ねた。
怖いので、それから、駈けるようにして、ふもとまで。
わずか50分できらら坂を下りきり、いつもの見慣れた風景の夕方が、そこにあった。ほっとひと安心。
足が痛いなあ。。
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