どの天皇様の御代であったか、女御とかこういとかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが、深い御愛寵を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、おや兄弟の勢力に恃む所があって宮中にはいった女御たちからは、失敬な女としてねたまれた。その人と、同等、もしくはそれより地位の低いこういたちは、まして嫉妬の焔を燃やさないわけもなかった。夜のオトドのトノイドコロからさがる朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見、耳に聞いて、口惜しがらせた恨みのせいもあったか、からだが弱くなって、心細くなったコウイは多く実家へ下がっていがちということになると、いよいよ帝はこの人にばかり心をお引かれになるという御様子で、人が何と批評をしようとも、それに御遠慮などというものがおできにならない。御聖徳を伝える歴史の上にも、暗い影の一所残るようなことにもなりかねない状態になった。高官たちも、殿上役人たちも困って、御覚醒になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどの御寵愛ぶりであった。唐の国でも、この種類の寵姫、楊家のジョの出現によって、乱が醸されたなどと蔭ではいわれる。今やこの女性が一天下の煩いだとされるに至った。馬嵬の駅が、いつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気の中でも、ただ深い御愛情だけをたよりにして暮らしていた。父の大納言はもう故人であった。母の未亡人が生まれのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢力のある派手な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者を持たぬこういは、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。